野口英世記念館

野口英世の生涯

1876年 11月9日、福島県三ツ和村三城潟で生まれる。(はじめの名を清作という)
1878年 4月末、いろりに落ちて左手に大火傷を負う。
1883年 三ツ和小学校に入学する。
1884年 斉藤幸元医師により左手の手術を受ける。
1887年 4月、尋常科4年に編入。
1888年 4月、温習科に入り、生長となる。
7月15日、磐梯山の大爆発を経験する。
1889年 4月、猪苗代高等小学校に入学する。
1892年 10月、会津若松の会陽医院院長・渡部鼎先生により左手の手術を受ける。
1893年 3月、猪苗代高等小学校を優等卒業。
5月、会陽医院に書生として入門。医学・英語・仏語・独語を学ぶ。
1896年 9月、医術開業試験受験のため上京。
10月、医術開業前期試験に合格。
11月、血脇守之助先生の厚意で高山歯科医学院の学僕となる。
1897年 5月、済生学舎入学。血脇先生の紹介で帝大外科教授近藤次繁博士による左手の再手術を受ける。
10月、医術開業後期試験に合格し、医師の資格を得る。
10月、高山歯科医学院講師となる。
11月、順天堂医院に勤務。
1898年 4月、伝染病研究所助手となる。
8月、帰省中に英世と改名。
1899年 4月、来日したフレキスナー博士の東京各地の視察案内兼通訳の任にあたる。
5月、横浜海港検疫所に検疫医官補として勤務。
10月、清国・牛荘に赴き国際予防委員会中央医院に勤務。
1900年 12月5日、横浜より亜米利加丸で渡米。
12月30日、フィラデルフィア到着。ペンシルベニア大学にフレキスナー博士を訪ねる。
1901年 フレキスナー博士の助手となり、蛇毒の研究に従事。
11月、ナショナル・アカデミー・オブ・サイエンスで蛇毒研究の成果を発表。
1902年 10月、ペンシルベニア大学病理学助手となる。
1903年 10月、カーネギー学院研究助手となり、デンマークに留学。
国立血清研究所に入り、マッセン博士に師事。
1904年 10月、帰米しロックフェラー医学研究所の一等助手となる。
1907年 6月、ペンシルベニア大学よりマスター・オブ・サイエンスの学位を受ける。
1909年 6月、カーネギー学院より『蛇毒』を出版。
1910年 『梅毒の血清診断』を刊行。
1911年 2月、京都帝国大学より医学博士の学位を授与される。
4月、メリー・ダージスと結婚。
1912年 母シカより帰国を促す手紙が届く。
1913年 進行性麻痺及び脊髄癆患者の脳中にスピロヘータ・パリーダの存在を証明。
9月、欧州各国の講演旅行に出発、スペイン・デンマークなどの国々より勲章が贈られる。
1914年 4月、東京帝国大学より理学博士の学位を授与される。
7月、ロックフェラー医学研究所正員に昇進。
この年、ノーベル賞候補となる。
1915年 4月、帝国学士院賞恩賜賞を授与される。
この年、ノーベル賞候補となる。
9月5日、15年ぶりで日本に帰国。勳四等に叙せられ、各地での講演会・晩餐会に出席。母シカらと東京・関西旅行を行う。
11月4日、横浜よりふたたび渡米する。
1918年 6月、黄熱病研究 のためエクアドル ・グアヤキルに出張。
11月10日、母シカ逝去(65歳)。
1919年 12月、黄熱病研究のためメキシコに出張。
1920年 4月、ペルーに出張。
11月、メキシコ・メリダに出張。
この年、ノーベル賞候補となる。
1922年 5月、血脇守之助先生、欧米歯科医学視察のため訪米。
1923年 7月3日、父・佐代助逝去(72歳)。
11月、帝国学士院会員となる。
11月、黄熱病研究のためブラジルに出張。
1924年 7月、ジャマイカ・キングストンで開催の熱帯病会議に出席。
1925年 11月15日、正五位に叙せられる。
1926年 オロヤ熱病原体について論文を発表。
1927年 トラコーマ病原体について論文を発表。
10月、黄熱病研究のためアフリカに出張。
1928年 5月21日、西アフリカ・アクラで黄熱病研究中に、黄熱病に罹り殉職(51歳)。
勳二等に叙せられ、旭日重光章を贈られる。
6月15日、ニューヨーク・ブロンクス区のウッドローン墓地に埋葬される。